私の母は
- 2022/09/16
- 23:10
母は遊び人でした。
と言っても、ただの専業主婦。
いえ、ただの専業主婦でもなく、一時は、短い期間ですが文房具屋をやっていたこともあります。
もっぱら、母が片手間で。仕入れもひとりでやっていました。
東京は浅草橋に文房具の問屋があり、そこまでリュックサックを持って買い出しに。
バスに乗って出かけました。私は末っ子ですから、お付き合いで(放置できないので?)いっしょにバスに乗っていました。退屈だったことを覚えています。
店は、単に思いつきではじめたと聞きます。私が幼稚園に上がったころには、店を開いていましたが、高学年になる前には閉めてしまいました。諦めのいいこと。。
家の前の道路が拡張されることもあり、店舗部分は骨組みを奥に移転。家は立て直し。
母は行動力もあったのですが、商売には向かなかったようで。
私が幼い頃は、よく映画館に行きました。
母の趣味です。近所に東映の映画館があり、大川橋蔵や美空ひばり、よく付き合わされました。
なにせ、私は幼い子供。半額か只だったのでしょう。
小学校に私が上がりますと、遠足や臨海学校、修学旅行。
当時は父兄もついて行きました。うちの場合は、母が。
修学旅行だって、ついてきたのです。
バスの中は歌の時間。マイクを持って歌っているのが私の母。ははは。。。
今の時代、考えられないことでした。。。
手がかからなくなってきた高校時代。
今度は、母は津軽三味線を始めました。
我が家が稽古場になり、先生を引き連れ、近所のおばさん連中、10数人が一度に介し。
ちゃんちゃか、ちゃんちゃか。。。ぺんぺんぺんぺん。。。
これは大変な音響でした。
稽古のときには、お茶とお菓子も必ず出ました。
目標は「名取」だとか。女3人集まればかしましいと申しますが、稽古が終わると、おしゃべりの時間、だれそれさんが、どうしたこした。。。
何度かの発表会も経て、そのうちに、この稽古の会も、内部分裂を起こすわけで。
なかなか、おばさん、力関係が大変で。先生だけが、おばさんたちよりも若いアンちゃん。
先生は毎回、苦労の連続だったようです。
稽古の会は縮小しながらも、たぶん10年もたたぬうちに、目標の名取になり、そして終わったようです。母は執念深かった。。。
私は、スポーツ嫌いでしたが、母はなんと体育会系?
運動神経も良く、何をやらせてもできた?
子供の頃は駆け足が早かったそうで。勉強は嫌いだったけれども、運動会は得意。
三味線が終わる頃、こんどはゲートボールが流行りました。
これも、町内のおばさんたち、グループをつくりでかけて行きました。
その頃は私も、就職し、実家を離れていたので詳しいことは知りませんけれど。
やはり、試合があり、勝った、負けた、と騒いでいましたっけ。
ネットサーフィンばかりの私とは大違い。
けれども、テレビゲームは大好き。
晩年、施設に入るまでは、寝ているか、あるいはテレビゲームの毎日でした。
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